過去のPure Soul
(05/12/22)
突然ですが、野辺和讃(のべわさん)って知ってますか?
――知ってる筈はないですよね。ハイ、説明します。
木造(きづくり)町では、お葬式の後、親族が行列を組んで、
墓所までお骨を運んで歩いて行くことを「野辺送り」(のべおくり)といいます。
その時に、皆で唱えるお経のようなものが野辺和讃です。
浄土真宗と、土着の信仰がゴッチャになった、死者を送るための「祈りの言葉」みたいなものかな?
ぼくが初めて野辺和讃を聞いたのは3年前。
父方の祖母のお葬式の時でした。
ま、とりあえず読んでみて下さい。
「野辺和讃」
嶺(みね)より落ちる滝の水
落ちる水は止まるけど
人の命は止められぬ
無常の風に誘われて
即時に面体変わり行く
親子親類集まりて
野辺送りを ととのえる。
白衣の衣に身を包み
棺の中へと納められ
香や花をば供えつつ
一日一夜は泊めおけど
三日三夜は泊められぬ
野辺へ野辺へと急がるる
野辺から先は連れもなく
先立つものは涙のみ
頼りにするのは杖ばかり
一人旅路をすごすごと
白き姿で唯一人
三途の川を渡り初め
死出の山路に登り行く
ようよう登りし山の上
道は八方で思案する
我も沙場に居た時は
慈悲善行の孝を積み
御仏様におすがりし
来いよ来たれよのお手引きで
ショバツ様や阿弥陀様
極楽途(ごくらくみち)をば御案内
汝吾(なんあ)もあわれな野辺和讃
口承で伝わっているし、祖母は漢字を書けなかったので、父が祖母から聞き取ったものに想像で漢字をつけています。
祖母はこの野辺和讃が好きで、生前は、よく仏壇に向かって唱えていたそうです。
「野辺送り」は、冠婚葬祭が住家で行われていた頃の風習ですので、
近代、催事場を使うようになってからは、その習慣は次第に廃れていきました。
父の代は知ってますが、その下の世代であるぼくは、野辺送りや、野辺和讃なんて全く知らない、…そんな状況です。
ぼくが初めて野辺和讃を聞いた時、――祖母のお葬式は、祖父母の住家で行われました。
実家はいかにも「農家」ってカンジのただっ広い家で、
部屋を仕切っている襖を外せば、ちょっと柱の多い大広間ができる造りになっています。
ぼくの父は男ばかりの六人兄弟なのですが、五人がそこで祝言(結婚式)を挙げています。勿論、神前式。
末っ子の六男の時は、さすがに時代の流れには勝てず、地元の催事場でウェディングドレスやケーキやらが出てくる現代風のものになりました。
そんな大広間にゾロゾロと喪服姿の年寄り達が集まってきます。
何となく、テレビで見るお葬式の風景とは違和感があるなー、と感じて、よく観察してみると
――太ってる人が居ない、
ということに気付きました。
皆、いかにも百姓っぽい風貌なのです。
多分、ほとんどがぼくと同じ名字なのでしょうが、知らない顔ばかり。
しかし、父や、その兄弟達は気軽に言葉を交わし合い、懐かしそうに目を細めたりしていました。
ぼくは世代間の隔たりのようなものを感じて、少々、寂しい気分になりました。
野辺和讃を知ってる世代と、知らない世代との違いなのでしょう。
弔辞を読んだのは父でした。
ぼくの父は、六人兄弟の三男坊なのですが、六人の中では一番お調子者で悪童だったそうです(父以外の五人がそう証言してる)。
憎まれっ子世にはばかるという諺通り、やけに顔が広いので、こういう席では、長男から全ての仕切りを任されるのです。
弔辞の内容は、こうです。
祖母や周りの親類も、別れの時をある程度覚悟し始めた頃、父が呼び出されました。
――白羽二重(しろはふたえ)を捜して欲しい
祖母にそう頼まれたそうです。
白羽二重とは、仏様に着せる白い装束のことです。
「野辺和讃」の 白衣の衣に身を包み という節の「白衣の衣」とは白羽二重のことを指しています。
祖母はお葬式屋さんの用意した着物ではなく、親類の用意した白羽二重を着て旅立ちたいと願っていたのです。
父は仏具屋さんに電話をして、どうにか白羽二重や野辺和讃を知っている業者さんを探しあて、手に入れることができたそうです。
――白羽二重を着せて、野辺和讃を唱えて欲しい、
祖母からそう頼まれたから、この場をお借りして…
と父は野辺和讃を読み上げ始めました。
この時、ぼくは初めて野辺和讃を聞いたのです。
白羽二重や野辺和讃なんて単語を初めて聞いたぼくはチンプンカンプンでしたが、野辺和讃のどこかもの哀しいフレーズに、
(へー)
と思ったりしてました。
何となく、極楽浄土への旅路をすごすごと進んでゆく祖母の姿が思い浮かんだり…、
その程度でした。
すると、目の前に居る参列者のお年寄り達から、すすり泣く声が聞こえ始めました。
見ると、皆、泣き崩れていました。
父は野辺和讃を読み終えると、弔辞の書かれた紙を仏壇に供えました。
その時の光景が心に強く残っていたので、後日、ぼくは父から野辺和讃に関する詳しいことを聞いたのです。
それで、お年寄り達が泣き崩れた理由も想像できました。
多分、野辺和讃や野辺送りのことを当たり前のように知っている世代は、父の代辺りで終わりでしょう。
それならば、今のお年寄り達が亡くなった時に、その見送り方は、彼等の知らない送り方になってしまう。
それは時代の流れの中、仕方のないことだと割り切ってはいるが、どこか寂しいものだ。まー、言っても詮無いこと…。
そんな心持ちでいたのでしょう。
そこに父が野辺和讃を持って来たので、お年寄り達の片隅に追いやっていた記憶が刺激されて、一気にみずみずしい感情が爆発したのでは。
そういうふうに想像してもよいのではないでしょうか。
そういうわけで、ぼくがいきなり野辺和讃のことを書いたのは、こんな風習もあったんだよと書き残してみたかったからなのです。
それと、ぼくはこの野辺和讃がいたく気に入っています。
ただそれは詩や音楽に感動するような感覚であり、弔いの席で泣き崩れた彼らのような感じ方をしたのではないのでしょう。
多分、ぼくの世代には、そんな下地は無い。
死者に対する敬虔な気持ちや、儀式を神聖と感じる自然発生的な素養は、すでに失われつつあります。
これだけ近代的な合理主義が浸透し、銭ゲバ的な行為や人物が罵られなくなった社会では、
死は単なる終わりで、死体なんて肉の塊だという感覚の方が、多分、強い。
父よりぼく、ぼくよりその下の代へと、どんどんそういった感覚が濃くなってきている。
ぼくがどんなに愛他的な感覚を意識し、磨いても、あの泣き崩れた人達には一生届かない。
どこか、不自然で、胡散臭さがつきまとうでしょう。
一代だけじゃなく何代も何百年もかかって積み重ねられた感覚を取り戻すには、相応の時間の積み重ねが必要になるでしょう。
それを前提にしても、混じり気だらけのぼくは野辺和讃を読むたびに
いいなぁ
と感じてしまいます。
もし、ぼくが死んだ時には、香や花か無くても、野辺和讃を読み上げてくれる人がいれば充分かな、と思ったりしています。
(2005/10/21)
「怖い祖父」
祖父が朝早く行商に出掛けて、帰って来るのは早くて日暮れ時の5時~6時。夜の(その頃にしてみれば「深夜」)
9時~10時に帰って来るのもしばしばだったそうです。
そんな冬の日には、まるで夜が二回来たような気分になったと父は言ってます。
濃密な冬の夜が幾度も過ぎた頃。糠の駄賃使を五年も十年も続けてゆくと…
家の辺りは2棟も3棟もの糠小屋が所狭しと立ち並んでいたそうです。
その糠の駄賃使で得たお金で、祖父は湿地帯で泥炭層の馬の助田…(馬が耕作することも出来ぬ田)
腰切田…(腰まで浸かって、戸板を渡して田植えをせねばならない田)
等と異名をとる、1反歩1俵あがるかどうかという死田を買っては土提を築き、田畔(たのくろ、土を盛って造った田と田の境界)
を創って土を入れ、土壌を改良していったそうです。
当時は珍しかった耕耘機を村で初めて購入。1町歩、2町歩と開墾してゆきます。
そして、ついに10町歩、千俵の夢を五十代にして実現しました。
6人の子供を育てながら。
…凄い、と思う。
そりゃ「怖い」のも当たり前です。
歩んできた人生の質があまりにも違うのですから。
祖父の小さな身体にみっしりと詰まったものがぼくを脅えさせていたのでしょう。
この人には絶対に敵わないという思いが、幼いぼくを萎縮させていたのです。
生命力の密度が違うというか…、この「生命力の密度が」とか言ってることがしゃらくさくなってしまうような、
なんともいえない太い迫力を感じ
てしまうのです。怖い、と思う。小手先の理屈なんて、一瞬で吹き飛ばされそうだ。
祖父のことを考えると、自分が裸になる。我が身を振り返ると。
本当にこの人の血を引いているのか?と疑わしくなります。
孫である筈のぼくは、あまりにも弱々しく、だらしなく、ワガママで、臆病だ。
こんなぼくが、どうにか生きてこられているのは。
もう、祖父や御先祖様の霊魂とか、なんかそういうものが護ってくれているとしか思えないのです。
ぼくの作品が評価されたりする時、一瞬は調子に乗りますが、自分だけの実力と思い込んで、いい気になることができません。
作品を描いてて怠けたくなる時、貧乏暮らしに
疲れて、マジで犯罪に手を染めてしまおっか?だなんて思ってしまう時、ぼくを律してくれるのは、法律ではなく、祖父の怖さです。
祖父に嫌われたらイヤだな、と。悪いこと、出来ないな、と。
吹雪の中を突っ切る祖父の姿が心に浮かび、どうしようもないぼくを、どうにかまっとうな人間にしてくれます。
その太い人生が、胡散臭いイデオロギーや、便利な神様からぼくを護ってくれてます。
他界した後なのに。
いたらない孫の為に、祖父は今でも働いてくれてます。
できれば安らかに眠らせてあげたいのですが。
最近、知ったのですが。
日本の近代史に興味があって、祖父の軍隊経験について父に尋ねてみました。
「あれ?知らねがったの?じっちゃの指のこと」
「指?」
祖父は若い頃、利き手の親指をナタで深く切ってしまい、親指が全く動かないのだそうです。
それで銃が持てずに、徴兵を免れたそうなのです。
「嘘?」
ぼくは全く知りませんでした。
そして、幼いぼくの前で薪をパカンパカンと割っていく祖父の姿を思い浮かべて、ぞっとしました。
こんな祖父の血を引いて、誇らしいと思う前に、己の小ささが恥ずかしくて、ひたすら御先祖様に申し訳なくなってしまう。
それ程に、ぼくは祖父が、怖い。
(05/10/17)
「糠の駄賃使(ぬかのだんちつけ)のこと」
父から聞いた糠の駄賃使のハナシはこうだ。
村の精米所に籾殻(もみがら)を捨てる小屋がある。中はゴミと籾殻がモワモワと立ち込めていて一寸先も見えない有様。
そんな小屋の中に入り、スコップを使って籾殻を掻きだし、米俵の5~6倍はある糠俵(たで)と呼ばれる巨大な俵に詰め込む。
それを今度は祖父の子供である父達兄弟がリヤカーで家まで運ぶ。
糠小屋(ぬかごや)と呼ばれる住家の2~3倍はある大きな安普請の小屋にそれを詰め込むのだ。
長男の命令により、奥から次男、三男、四男と並んで入ると、戸口に居る長男が糠俵から籾殻を小屋の奥へ開け入れる。
それを兄弟たちがスコップで小屋の奥へ奥へと押し込む。
奥の方程、モワモワと塵芥がひどくて、一番奥でやるのを皆が嫌がり、兄弟で押し付け合っていたという。
冬になると、それをまた糠俵に詰め込み直し、蓋をして馬ソリに50本程度積み込み、ロープでキツく縛る。
祖父は、まだ明け暗れね吹雪の朝を、10里も20里もの雪路を突っ切って行くのです。
行く、といっても、その頃の津軽の冬は雪で道など無くなってしまいます。
何人もの人が何度も何度も通り、繰り返し踏み固められたものが自然と道になってゆくのです。
雪が降る間だけ出現する曲がりくねった細長い一本道。
それが津軽の雪道です。
そこを外れると、ズブズブと雪にぬかるんでしまう。
重量のある荷物をソリで引いている時、踏み固められた雪道を外してしまうことは、直接、死活問題に発展する可能性を孕んでいる。
しかし、雪道は狭い。
しかも一本道だ。
そりゃ、細かい譲り合いは
あったでしょうが、巨大な馬ソリを引いている者同士がすれ違う時…。
それは闘いだったそうです。
道を譲ってしまうと、ヘタをしたら商品を雪の中にぶちまけたり、ソリにダメージを受けたり、馬が怪我をする恐れがあるのです。
道を譲る譲らないの対決は、単純に腕っぷしの勝負。野生生物の縄張り争いと同じようなものです。
祖父は時々、村の腕っぷしの良い奴を用心棒として雇って連れていたそうです。
子供達に荷の積み込みを手伝わせるが、直接、売りに出歩くのはいつも祖父一人。
恐らく、色々なことがあったのでしょう。子供には見せられないドロドロしたものが。
一寸先も見えぬ糠小屋のよいな吹雪の夜。
遠く産土様(うぶすなさま)の神社の角を曲がって村の一本道に入ると、馬ソリの鐘の音が地を這うように、
カァン
カァン
と、聞こえ、家の飼い犬が気違いの如く吠えたてて走り回る。
村の灯りが見えて、気勢忙しく身を震わせ足早になっている馬の鐘の音が家の軒先に到着する。
さぁ、帰ってきた。
土間に馬小舎にとランプを点し、一家総出で
祖父を迎える。
白い鼻息と、ふいごのごとく咽を鳴らす馬の轡を長男が取る。
犬の毛皮の胴着を着た雪ぐるみの祖父が、ムックと起き上がり、ソリから降りて、馬の腿の辺りをポンポンと叩き労をねぎらう。
ソリから放たれた馬が土間に入る。凍りつき、固まっている馬踏(まぐつ)を脱がせ、身体中の汗を祖母と兄弟で拭き取る。
この馬の写真が一枚だけ残されているのですが、笑ってしまう程にデカいのです。
象みたいな馬なんです。昔の農耕馬はみなそんなもんなんだと父は言ってました。
当時は何処の家にも馬が居て、祖父は子供より馬を大事にしてたらしいです。
父は馬の世話をサボってばかりいたので、馬から嫌われていて、その巨大な馬に蹴られたり噛まれたりされてたそうです。
馬の汗を拭く時、手順を間違えると、馬が父をこずきます。それを見て、祖父がまた殴りに来る。
踏んだり蹴ったりです。
父は、馬の汗を拭くのが物凄くイヤだったと言ってました。
12月から4月の雪溶けまで。
祖父はこの糠の駄賃使を一日の休みもなく続けていたそうです。
(05/10/16)
「祖父のこと」
皆さんとおなじように、ぼくにも祖父母が四人居ます。
父方の祖父母と母方の祖父母。
四人とも、既に他界しております。
まずは、父方の祖父のこと。
実家で育ったわけではないぼくは、そんなに頻繁に祖父母と会ってはいません。
接する機会があったのは正月とか、盆やお彼岸。それと、父が実家に米や野菜を貰いに行く時。
育った処と実家は車で二時間程の距離だったので、甲斐性のないぼくの父はわりとあしげに実家へ通ってたように思えます。
会うといっても一年に5~6回でしょうか?
そんな時、会う祖父は。
ぼくにとって「怖い」人でした。
…怖いと言っても、祖父は小柄な方で、つぶらな瞳に酒飲み特有の赤ら顔で、どっちかというと愛嬌のある外見かもしれない。
…怖いと言っても、よく考えてみれば、ぼくは祖父から怒られた記憶など無いのです。じっくり思い出してみるとむしろ逆。
行く度にお小遣いをくれたし、可愛がってくれた。
ぼくが小学生位の頃、実家で薪わりを手伝ったことがありました(実家は薪ストーブだったんですよ)。
斧の重さにフラフラしながら薪わりで遊ぶ(やってるぼくは一生懸命手伝いをしてるつもりだったんでしょうが…)
ぼくを見る祖父は…、ニコニコしていたと思う。
下手くそなぼくを父がからかって野次る。祖父はぼくをかばって父をたしなめる。
「こうすんだ、見でろ」
そう言って祖父は斧を軽々と振り回し、パカンパカンと薪を割ってくれた。
そうすると、父がぼくにいいところを見せようとして祖父と斧を取り合ったりしていた。
…ちっとも「怖い」ところは無い。
ただ、父から聞く祖父のことは、「とにかくブン殴られた」というハナシばかりだ。
父が子供の頃、家で宿題をやっていたら祖父がやって来て、
「勉強は学校でするもんだろ?家では仕事をしろ!」
そう言って教科書を取り上げて火にくべてしまったこともあったそうです。父からそんなエピソードを散々聞かされていたので、
幼いぼくはなんとなく祖父は怖いんだと思い込んだのでしょう。
しかし、あんだけ優しくされていたら、祖父のことをそんなに怖がる筈はない。
多分、祖父には消せない「怖さ」が残り香のように漂っていて、ぼくはそれに脅えていたのかもしれません。
最近、父から祖父のことを詳しく聞かせてもらいました。
祖父は。
名前は正三(まさぞう)。
百姓の三男坊だ。
兄弟の名前は、長男が正一(まさいち)、下の方は正四郎、正五郎。そんな名前の付け方が一般的だった時代だ。
大正二年生まれ。
西暦で1913年だ。
オーストリアの皇太子がボスニアのサラエボでセルビアの青年に暗殺された事件をきっかけに第1次世界大戦が始まる一年前だ。
そんな時代。
百姓家の三男坊など、かなりいいかげんに扱われる時代だ。
そんな時代、正三は。
1年にお米2俵で、他家に農作業奉仕をする、借子(かりこ)という修業時代を経て、田畑3反歩を貰って分家した。
その日から、祖父は精米の時に出る籾殻(もみがら)を他家から安く買い漁った。
モミガラなんて言わばゴミですから、タダ同然で売ってもらえる。ところが、これが冬になると商品になるのだ。
買ってくれるのはリンゴの仲買人。
当時、モミガラはリンゴを箱詰めする際の緩衝材(クッション)として重宝されていたそうです。
冬場、祖父は籾殻を馬ソリに積んで、リンゴ仲買人に売り歩いていたのです。
この、「糠の駄賃使(ぬかのだんちつけ)」と呼ばれる行商を、何十年も…、馬車が自動車に変わるまで、何十年もやっていたという。
津軽では、冬場に仕事をする百姓は少ない。というより、雪で仕事なんか出来なくなるのです。
津軽三味線なんかは、そういうヒマな百姓を相手に発展していった文化だそうです。
そんな冬場に、祖父はせっせと行商をして、仕事に精を出していた。
ただ、周りの皆が休んでいる時に仕事を手伝わされる子供(父とその兄弟たち)はたまったもんじゃなかっただろう。
どうにかして仕事をサボろうと無駄なあがきをしては最終的に見つかってブン殴られる。そんな話を父から何度も聞かされています。
05/10/02)
この度はサイト「タマキン焦がして」に来て頂いてありがとうございます。お元気ですか?エロソングです。
イベントで、サークルのスペースに来て下さった方は判ってると思いますが、
ぼくの言葉って、物凄~く「訛ってる」んです。大概の人はぼくと初対面で会話をすると、
かなりの違和感を覚えると思います。実際、読者の戸惑う表情を何度も見てます(*^_^*)。
ぼくの産まれた所は、青森県の西津軽郡、木造町(きづくりまち)という所でして、
ぼくは津軽訛りなのです。普段は津軽弁です。津軽の人でないと殆ど聞き取れないと思います。
その産まれた所、というのが町の何処からも岩木山が見える「視界360°田園風景」のド田舎なんです。
そんな土地に在る実家は勿論農家でした(本の奥付にぼくの名字が載っていますが、
もう「農家以外考えられない」名字です)。近所はぼくと同じ名字の家ばかりで、周りは殆ど身内。
集落の中に在る唯一の商店の屋号もぼくと同じ名字です(身内がやってる)。
実際に育ったのは、もう少し都会?の青森市内なのですが、やはり産まれた所の泥臭さは訛りと共に未だに抜けません。
今年の夏コミ終了後、とあるオフ会に参加させていただきました。
初めての経験でしたので、戸惑いもありましたが、時間を忘れて楽しく語らうことができました。
ただ、そこで違和感を覚えたのが、皆が「ペンネームで呼び合う」ことでした。
ぼくは自己紹介する時、思いっきり本名を名乗っていたのですが、いつの間にかペンネームで呼ばれていました。
多分、それが同人やオタク界の常識なのでしょうが、田舎の感覚が染み付いたぼくはそんなやりとりに違和感を覚えてしまうのです。
初対面といえば、まず名前、会話の話題は、職業、出身、家族構成から入っていって、
その後に趣味や主義主張の話題に移るというのがぼくにとっての常識となってしまっているんです。
サークルの読者へ向けて作者であるぼくの好きな漫画やアニメやゲームの話をするのが、
こういったサイトの流儀なのでしょうが、好きな漫画やアニメのことが「ぼくのこと」を現すとは思えないのです。
「ぼくのこと」は結局、生まれ故郷や、育った環境、父母、祖父母といったもの抜きには語れない、というのが田舎モンとしてのぼくの感覚です。
そんなわけで、この「Pure Soul」では、ぼくの産まれた所や、家族の話をしてみよーかなと思ってます。
「そんなのつまんねー!」って?
セイ!セイ!セイ!(▼@▼)/
ぼくは田舎のほのぼの癒し系スローライフとかを語るつもりはありませーん!
不便さを自慢げに語ってから、「でも、人情が…」とか、「食い物が…」とか、そういう旅番組的予定調和は狙ってないので御安心を。
多分、漫画やアニメのハナシよりハードでファンタジックでダイナミックでブリリアントでマブいと思いますよ。
というワケで先ずは本名で挨拶をば。
こんにちは。稲場冬樹(いなばふゆき)です。どーだ、田舎くさい名前だろう?( ̄ー+ ̄)
名前の通り、田んぼのど真ん中で冬に産まれたヤロです。
大樹のようにスクスク育ってるかどうかは皆様の判断にお任せします。二人兄弟で、上に兄が一人います。
最初はぼくの祖父のことから話してみようと思います。